たった、ひとこと
序章
夢は、毎日笑顔が生まれるような、暖かい家庭を持つこと。時には喧嘩してもいいから、望むのは普通である幸せ。
そんな事を考えていたのは、いつの日だったか。
諦めていた。
……幸せになる事を。
どんなに願っていても、私は
――え……、ここ、は……
「ねぇ、おかあさ……」
「うるさい」
私と、……お母さん?
お母さん……どうしてそんな目をするの
「お母さんはねぇ、あんたより舞の方が好きなのよ」
嘘。やめて、やめてやめてやめて!
「おかあさん……」
帰りたい……ここは、キケン
ここは、家だ。
なのに、私は
帰りたい、なんて。
「……ん」
じりじりと、頭に響く目覚ましの音を止めようと手を伸ばして、叩く。
……嫌な、夢見た
仕事、行かなきゃ
ああ、疲れた……今日も駄目だ。熱っぽい。
帰りたい……
「行って来ます」
誰もいない家。返事は返ってこないけれど。
かえりたい……
朝から皮膚が痛む程照りつける日光の下を、黒い傘をさしながらアルバイト先に向かって歩く。
残暑が厳しい、九月。じりじりと焼けるアスファルトに、黒い影が揺れる。
今時少し珍しい真っ黒な長い髪が、時折吹く風になびいた。
蒼井涙(るい)、十九歳。
目は黒目がちでぱっちりとしていて、それなりに整っているのではという容姿は長い前髪によってほぼ隠れてしまっている。化粧は薄く、黒のロングスカートのワンピースが体型をすっぽり隠してしまっていてわかりにくいが、傘を握る手の指はほっそりとしている。百五十三センチとあまり高くない身長もあるせいか、年齢の割には酷く幼く見える。
彼女はどこかふらふらと歩いていて、健康的には見えない。
(朝ごはん、食べれなかった。薬飲まないといけないのに)
朝見た夢のせいで、胃のむかむかを抑えそんな事を考えながら傘を顔に日が当たらないように傾けて歩いていた彼女の目の前の歩行者信号は、点滅を終えて赤く光る。
(一応薬は持ってきたけど……食べないで飲むと、吐いちゃうんだよな)
一歩、また一歩踏み出す。
キキイーーー!
周囲に耳を塞ぎたくなるような、暑い中に寒気のする音が響いた。
そう、その音だけが、少女の頭に響いた。
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